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バブルファンタジー 〜 幻の日経平均40,000円

ちょっと今日は一息ついてティータイム。

1989年12月29日ってどんな日か知っていますか?
今や知らない方が大半かと思いますけれど、日経平均株価が史上最高値を記録した日です。

ニューヨーク市場は今年2022年の年明けに史上最高値を更新し、現在なお高値水準が続いていますが、日経平均株価は30年以上経った今でもこの記録を抜くことができません。
あの日の終値は前日比38円93銭高の38,915円87銭。取引時間中(ザラ場といいます)の最高値は38,957円44銭でした。

そんな昔のこと、いまと関係ないでしょ?
とあなたはおっしゃるかもしれませんが、実はそうでもないんですよ。

今日はそんな話をしようと思います。

アベノミクスで、日銀による異次元の金融緩和というのがありました。いまも継続していますが、実際、景気と株価のためのなりふり構わぬ政策でしたよね。
良し悪しはいろいろ議論あると思いますが、まあ、株も実際倍になって多くの人が儲かったことだし、それで景気が上向くんだったらそれはそれで良いんではないかと私は思うわけです。

問題はあの政策っていうのは、弱った身体に劇薬注入するようなもので、いつかどこかでその反動は訪れるはずなんですよ。
すぐにはない話ですが、いま懸念されている金利の上昇というのが本格的に始まったら日本はどうなるのかなあ…
なんてことを考えたときに、ふとあの日ー1989年12月28日ーのことを思い出したんですね。

この日は「日経平均が史上最高値をつけた日」ではあるのですが、マーケットの中に身を置いていた人にとってこの日は「相場の天井を確信した日」でもあります。
当時証券会社社員だった私は、いまでもこの日のことを鮮明に覚えています。

日経平均はその前の月の11月7日に安値35,098円78銭つけてしばらく35,000円台でもみ合っていましたが、11月半ばからスルスルと上がり始め、そこからたったひと月で1割近く上昇して38,000円台。
40,000円の大台がすぐそこに見えてきていたんです。
この年は株式市場への資金流入も順調で、ひとつの銘柄で1億株以上の出来高なんてのはザラでしたし、日経平均が500円高、1000円高なんてのは珍しくもなんともありませんでした。

12月20日過ぎたあたりから「少し上値が重いな…」とは感じてはいました。買い注文がガンガン入る割には、以前のような軽い値動きがないわけです。
それでも前日12月28日の終値は38,876円。40,000円まではあと1,124円。当時の値動きからしたら大台乗せは十分可能でした。

ここでちょっと脱線しますけれども、【板気配】の記事のときに少しだけ触れた当時の取引所のしくみと短波放送についてお話しますね。
これは私が入社2年目の1985年当時の映像ですが、1989年当時も同じなのでご紹介します。
「板気配」の「板」の意味がこれでわかりますよ。

You Tube 日本取引所グループ公式チャンネル
「1985年(昭和60)年頃撮影:立会場事務合理化システム導入前の立会場」

後半あたりで場立ちがひしめき合っている様子が映されていますが、1989年頃はこんな生易しいもんじゃなかったですね… 場立ちがはじき飛ばされてましたからね。
この立ち会い場の様子が短波放送で実況中継されるわけです。各支店の営業場にはこの短波放送が流れていて、寄付き前の動向や、取引中刻一刻変化する株価動向を伝えるんですよ。
証券会社の営業社員はその短波放送を聞き、目の前に並ぶ株価ボードを見ながらお客さんと電話でやりとりするわけです。

ここで話を戻しますが、12月29日は大納会の日。(その一年の最後の取引の日。) 土曜日で午前中だけの取引でした。
短波放送から伝わる取引所の様子は熱気を帯びていて、寄付き前状況では「〇〇に2,000万株、〇〇に3500万株の成行き買い注文」なんていう日でした。

ものすごい市場エネルギーをだったし、明らかに今日の40,000円乗せを狙っているな、と営業マン同士で話していたのを覚えています。

9:00の取引開始、買い気配で始まる銘柄も多かったです。ここまではいつもどおり。
短波放送では「〇〇に500万株の買い注文が入りました」というアナウンスについで、場立ちたちの「おおっ!」というどよめきまでも聞こえてきました。
ところが…
ボードを見ているとなんとなくおかしい。マーケット関係者はみんな感じていたと思います。
大口の買い注文が入ってきているのになかなか上がらない。
結局、なんとか前日比プラスの史上最高値で終わりましたが、40,000円大台には遠く及びませんでした。
「ああ、終わったなあ…」とつぶやいたのを記憶しています。

そして1990年年明けから株は長期に亘って下落を続けます。
後でわかったのですが、売りの主役は外人、海外投資家でした。

話を一番最初に戻しましょう。
これがなぜいまの日本と関係あるのか。
それはその後起こるバブルの崩壊が日銀による金融引締め、金利の引き上げからスタートしたものだからです。

当時の日本はご存知の通り「バブル」の時代でした。
「バブルへGO!」という古い映画があるんですけれども、あのまんまです。
株だけでなく、土地、ゴル具会員権、絵画ーおおよそ相場が立つものは全て何倍にも値上がりしていました。
私が勤務していたのは新宿区内の支店で、土地の値上がりも強烈で、そこに家を持つ人は「札束の上に寝ている」状態だったんですね。
これを支えたのが銀行融資です。

ここに土地がある、その土地を担保にしてお金を借り、また土地を買う。それをまた担保として… を繰り返すわけです。
1億で買った土地がすぐに2億、3億になるという前提で、A銀行、B銀行、C銀行が一つの土地に対して何重にも貸付するんですね。
親ガメの上に子ガメが5匹も10匹も重なり乗っかっている状態です。

そこで出たのが1990年の「総量規制」でした。
簡単に言うと、土地担保の融資を制限するという大蔵省銀行局(いまの金融庁ね)の「お達し」です。
親ガメがコケて子ガメ全滅、融資は焦げ付いて全部不良債権になるし、土地の値下がりに絡んで大企業がバッタバッタと倒産していきました。
バブルの終了ですね。

実はバブルによる景気の過熱で、すでに1989年5月から日銀の金利引き上げ政策は始まっていました。
1990年の夏までに5回の利上げ。公定歩合が2.5%から6%まで一気に引き上げられたんですね。
これによって株が史上最高値を付ける前に、債券市場はもうかなり下落していたんです。

それでも私たちは
「債券市場が下がって利益がとれないからその資金が株に向かって株はまだ上がる」
という見方をしていました。

その間、海外投資家は日本の行く末をしっかり見通してたんですね。

私はこのような状況がいまの日本ですぐ起こるとは考えていないです。
しかしマーケットのことはマーケットが決めることです。
いくら日銀がETFで買い支えしても、最風的にはマーケットの力には勝てないです。

異次元の金融緩和が始まった2013年の15,000円水準まで下がるというのは、ないと考えていますが、「ない話ではない」とも考えています。

あなたもちょっとだけ、こんなリスクもあるんだよ、ということを感じていただけたらなあ…

と思って、今日はこの記事を書きました。

ずいぶん長いティータイムになっちゃいましたが、これで終わりましょう。

では。

★本日の証券用語
・ザラ場 ざらば:取引時間中のこと。
・大納会 だいのうかい:その一年の最後の取引の日。
・大発会 だいはっかい:その一年の最初の取引の日。

 

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